【だい8わ】こふみさんの探しもの【高齢になった親との付き合い方】

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前回→だい7わ:私と高齢になった親



だい8わ:高齢になった親との付き合い方

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こんにちは、こふみす。

今回も、おつきあいいただき、ありがとうございます。

 

前回は、私が高齢化した両親といっしょに暮らしているという話をしました。

みなさんのなかには、親はまだ高齢ではないという方もおられると思います。

 

そんな方は、いつか、親が高齢になったとき、親とどうつきあっていくかを、一緒に考えてみませんか。




グリーフケア?

私は、毎日、イライラしながら、一方では、このまま親にきつくあたっていたら、親が死んだとき、後悔するだろうという思いがありました。

 

また、残された方の親が、亡くなった親に対する私の態度が悪かったと、私を責めないだろうかという、心配もありました。

 

そんな時、出会ったのが、ロバート・A・ニーメヤー著(鈴木剛子訳)「「大切なもの」を失ったあなたに    喪失をのりこえるガイド」という本です。


この本には、グリーフケア、すなわち、大切な人を失くした後に、動揺する心の整理をしたり、失くした人のことを含めて人生に新たな意味づけをして生きていく取組みについて書かれていました。

 

その本を読み進めていくうちに、喪失とは、大切な人との死別だけでないということがわかりました。

物理的な別れはなくても、例えば、相手が認知症になったり、意識障害があるなど、意思の疎通が難しくなったりすることも、喪失の一つなのです。

 

喪失したものとは、何?

親との関係で、喪失したものは何かを探るにあたり、以前の親と今の親は、私にとって何が違うのかを考えてみました。

 

結論から言えば、以前の親は、「自分ことは、自分でできる人」でした。

 

私は、幼い頃から「自分ことは、自分でしなさい。人に頼らないこと」と、親から言われていました。

 

いまだに、人に頼むのは苦手です。

人にお願いするくらいなら、少々無理をしても、自分でした方がましだと思いがちです。

 

人に頼ることは、自分ができないことを認めること、できない自分は、親から見捨てられるかも…。

ここでも、見捨てられ不安(造語です)が見え隠れ。

 

確かに、高齢になれば、ひとりでできないこと、人の助けが必要となることが増えるのは、当然のことかも知れません。

 

そう頭では理解していても、感情的には、「自分のことも、自分でできない」親の姿を受け入れるのは、なかなか難しいものがありました。

 

喪失したものは、「自分のことは、自分でできる親」のイメージ(虚像)です。

 

この先、親は、どんどんできないことが増えるでしょう。

 

それをどう捉え、どう考えたら、親とのつきあいが、もう少し楽になるのでしょう?

 

探しもののヒントは映画のセリフ

探しもののヒントは、昔の映画のセリフの中にありました。

 

I  am  not  what  I  was.

(私は、もう、昔の私ではない)

予備校の先生が教えてくださったのですが、女性が、長い年月を経て、出会った昔の恋人?に言うセリフとのことでした。

 

それと同じように、高齢になった親は、もう、昔の親ではないと考えてみることにしました。

 

こちらが期待したことができるのが当たり前の人ではなく、期待したことができなくて当たり前の人。

 

いっそ、別の人だと思えば…。

自分が思い描いている、期待している親のイメージと、現実の親とは、別の人いう意味です。

 

そう、思ったら、ふっと肩の力が抜けて、楽になりました。

 

減点主義でなく加点主義で

高齢になった親が、何もできなくなったわけではありません。できることは、あります。

 

例えば、以前と比較して、こちらが親はこのくらいできてほしいと期待したことの4割程度はできる状態だとします。

 

その時の考え方ですが、減点主義で、6割もできなくなったと見るか、加点主義で、4割もできることがあると見るかによって、イライラの程度が違ってきます。

 

試しに、期待とは別の人説、加点主義で、親に接してみることにしました。

 

自分が忙しいときや、ひどく疲れている時は、家事をひとりで抱え込まず、とりあえず、親にも協力を頼んでみる。

できないなら仕方がない、できることがあれば、もうけもの?という感じではどうだろうか。

まず、テレビを見ている親に、「手が空いてたら、この皿をテーブルまで、持って行ってもらえる?」と、してほしいことを、具体的に、伝えてみました。

 

自分でも、びっくりするほどくらい、おだやかな口調で、頼むことができました。

 

一歩前進です。

 

高齢になった親につらくあたらないためには、まず、親に求める役割や期待を、ちょっと変えることから始めればいいのかなと思っています。

 

目指すのは、予期しないことが起こっても、イライラの青信号。つまり、ちょっとイラッとする程度で収めること。

 

これからも、高齢になった親との暮らしは続き、自分も高齢になることを考えると、学びは続きます。

 

老年精神科医の和田秀樹先生の書かれた「自分が高齢になるということ」も、高齢になることをどう受け止めるか、参考になりました。

読書好きな親が手に取るように、茶の間のテーブルの上に置いておこうかなと思っています。

 

ここまで、読んでくださって、ありがとうございます。

あなたにも、わたしにも、心におだやかな時間が増えますように。

 

では、次回もまた、私の探しものにおつきあいいただけるとさいわいです。

 

 

参考

ロバート・A・ニーメヤー著(鈴木剛子訳)「「大切なもの」を失ったあなたに    喪失をのりこえるガイド」


和田秀樹    新講社「自分が高齢になるということ」

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